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岩手大学電気電子情報科会へようこそ

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     ラジオドラマ草創期の思い出 (小野寺瑞穂) 2019.11.25.
        はじめに
        ラジオに関わったきっかけは
        エッ!局長室でリ、リハーサル!
        生放送のスケジュール
        ここで大きな疑問?
        当時ほんとうにあったお話
        終わりに 


     岩手大学創立70周年行事に参加して (柴田隆昭) 2019.11.23.

     科会同窓生の皆々様へ (柴田隆昭) 2019. 5.23.

     「鷲」の雪形が春爛漫を告げました 2019. 4.27.

     山田線の宮古~釜石が三鉄リアス線として復旧 2019. 3.24.


 小野寺瑞穂氏は、放送開始以来ナレーターを担当している民放テレビ局「岩手めんこいテレビ」の長寿番組「山・海・漬」(毎週土曜日午後6時30分)が、この秋に放送1000回に達しました。 これを機に、この原稿と記念の「絵入り南部煎餅」を、科会ホームページにいただきました。小野寺瑞穂氏はナレーターとして多方面で活動しており、今後もお元気に続けてください。


  ▼▼▼2019年11月25日▼▼▼
 ラジオドラマ草創期の思い出
                  小野寺 瑞穂 電気工学科第2回 昭和29年卒

 はじめに
 NHK盛岡放送局(コールサインJOQG)は、仙台・秋田・山形・弘前についで、昭和13年9月に開局(ラジオ500ワット)。東北で5番目の開局であった。
 私が市立厨川尋常高等小学校に入学した年である。因みに母校盛岡高等工業学校(現岩手大学工学部)は翌14年の創立だから、その1年前と云うことになる。
 小学校の「定番・遠足コース」高松の池に向かう時、黄金色に輝く田園の中に、秀峰岩手山を背景に、小さな白いマッチ箱様のQGの局舎があった。局舎の両側には、2基の高さ50メートルのアンテナ鉄塔が挟むように並び立ち、構内入り口には、高松交番が丸い赤ランプを灯して、盛岡放送局を警護するかのように上田通りを睨んでいた。
 「ヘー、これが放送局か…?」なぜか、小さな胸が興奮を覚えたものであった。ところが、思いもかけないことが起きた!放送劇に出演のチャンスが訪れたのである。大東亜戦争勃発の翌年ではなかったろうか、小学5年生頃だったと記憶する。
 ラジオドラマの筋書きは、郷土の伝説を基に岩手山と姫神山、早池峰山の葛藤を劇化したものではなかつたろうか、今となっては記憶にない。ただ、記憶に残るのは、演出してくれた人、お世話してくれた人?は事務職の人でありながら、スタジオに持ち込んだトタンをドロドロと鳴らし大噴火を表現するなど、効果マンの働きまでしてくれたこと。出演者は男女合わせて、(劇中の音楽を担当した級友も含めて?)20数人と記憶するが、揃って小ざっぱりとして、放送に臨んだことであった。(ラジオでは姿が見えないんだよね)
 そんなことがきっかけになった訳ではないが、戦後間もない26年正月から、現在に至るまで、60有余年。県内外のNHKや民放で、放送業界の中で、好きな仕事に没頭することが出来たことが生涯の想い出であった。(27年盛岡放送劇団第1期生となる)
 馬齢を重ね、八十路も半ばを控え、未だ現役?で携わる者として、かつてのQGのドラマ草創期に関わった想い出を、忘却の彼方より引き戻し、記録に残しておきたいとペンを執った次第である。

 ラジオに関わったきっかけは
 開局から7年。戦時中は、アナウンサーは「放送員」と呼称が替わり、「ニュース」が「報道」と改称、「今日の戦況とニュース」は「今日の報道」となるなど、戦時色が日増しに色濃くなつてきたとき、昭和20年8月15日正午。
 全国民がそれぞれの場所で、それぞれの思いで、真空管式のラジオから流れる「玉音」に涙したことは忘れることはできない。
 民主化の喜びを感じる暇もなく、翌9月にはGHQによる番組検閲が開始された。
 NHK(東京)は、次々に番組を充実、娯楽に飢えていた全国民を楽しませてくれた。(後の紅白歌合戦のハシリとなった、紅白音楽試合も12月には放送され、年が明けて「のど自慢」が放送されている等々のエピソードの紹介は割愛する)
 戦後5年。NHK盛岡放送局も、総務、放送、技術の組織の増強をめざし、本格的なローカル放送の充実を図ることになり、新人職員が希望に燃えて盛岡の地を踏んだ。
 かくして、後にローカル局の名長寿番組として記憶に残る「伸びゆく若葉」の誕生を見た。
 その産みの親ともいうべき飯田白馬元アナウンサーの、開局70周年記念誌に寄稿された「伸びゆく若葉・誕生」の一文を抜粋しご紹介したい。

 昭和25年、盛岡局には、PD2名、記者1名、アナ1名が新人として赴任した。特に記者は盛岡局1号、PDも本部採用は初めて。つまりNHKが本格的にローカル放送拡充を図った年だつた。私もその一員として生まれて初めて盛岡に着任した。
 スタッフは充実した。さあ、どんな番組を放送するか、来る日も来る日も夜中まで議論が続いた。放送はナマだから、議論の間に放送を出す始末だった。(中略)
当時東京からは、連続ドラマ「向こう三軒両隣」と云う人気番組が毎日のように放送されていた。私の提案は「向こう三軒の岩手版」(作者、出演者の件は…中略)
予算は…脚本は自分で書く、出演者は、全員素人、局の近くの○○高校の女生徒・先生、男性は近くの大学生。学校の帰りに立ち寄ってもらえる。新鮮味を出すために番組名は「伸びゆく若葉」。フレッシュ感を込めて名付けた。当初は若者向けのホームドラマで、日々話題を変えた。」
以上、NHK放送記念日(QG開局記念、75周年記念)に特別寄稿された一文より抜粋

 かくして25年9月、初めてのラジオドラマが電波に乗った。だが、初めてのラジオドラマの制作。手探り状態の苦労の連続!を次のように振り返っている。

 「時間を要したのは、台本制作の謄写版の「ガリ切り」。さらに印刷、今のようにプリンターもコピーもない。脚本、演出、効果音選び、アナウンスなど、一人で何役でもこなす。
 宿泊の夜は徹夜でその事に没頭した。しかし反響は今一つ、どうしたらいいか。岩手でなくては創れないもの。それは何か。その時、「岩手新報」に連載小説を書いている佐藤竜太が目に留まった。
 ユーモアもあり、鋭い感覚も持って居る。彼に会って意図を告白、一緒にローカル線に乗り農家を訪問取材。あっという間に方向性が決まった。方言ドラマにしよう。心配もあった。聞いて下さる方に方言コンプレックスはないだろうか…お爺さん、お婆さん、息子夫婦、子供などの農家を設定し、その家族間の日常の暮らしと会話を軸に話題を展開しよう(以下省略)」

 註:飯田氏は米寿を迎えるも壮健、相模原在住。75周年には、盛岡グランドホテルで開催された式典で、イベントで「伸びゆく若葉」の公開放送に当時のアナとして出演して頂いた。
 当時、標準語教育推進の時代に、逆らうように、敢えて方言で放送するなんて!だが危惧することは無かつた。農民知事国分謙吉氏をトップに戴いた、岩手の農家の人たちは、農村ホームドラマとして、稲作の問題、農作業の話題、若者たちは青年団や、4Hクラブの活動と、農村の話題満載に親しみを持って聞いて呉れた。
 試行錯誤を繰り返し、新しく衣替えし、農村向けラジオドラマとして内容を一新、再スタートした「伸びゆく若葉」は、週1回、県民の皆様に愛され12年間600回の放送回数を達成。
 昭和37年9月、惜しまれて幕を降ろした。昭和29年度には、放送開始以来220回を数え、盛岡局制作番組の最高視聴率(50%を超えたとか)を継続した。31年度には「明るい農村番組」として県民に親しまれた功績に対し、仙台中央放送局長賞を受賞、翌32年3月にはついに400回を達成した。
 未だに、当時子供で、ラジオに親しんだ人たちが、シニア世代を迎えた現在、ドラマのテーマ曲を口ずさむなど、今も脳裏に刻みこまれているらしい。
 盛岡放送局開局75年記念・放送記念日の催しに、「伸びゆく若葉」公開放送(子役以外は当時の出演者、PD、アナによるもの)は、時の仲本局長が市民との話題の中で過去の「若葉」の人気を初めて聞き、特に企画されたもので、半世紀をタイムスリップするもので大変想い出深い-幕であった。
 あまりにも古い昔話で、説明すべき前置きが、長くなり恐縮の極み。ラジオドラマの出来上がりまで、無我夢中で取り組んだ一部始終とはいかず、思い出すままその一部をご紹介しよう。

 エッ!局長室でリ、リハーサル!
 放送が完成するまでに、お世話になる控室、リハーサル室そしてスタジオの概略を説明しましょう。
 まず、正面玄関の両開きのドアを押して中に入る。靴を脱ぎ廊下に上がると壁面に、大きなドアが(現在で見れば、特別に大きなドアではない)あり、ドアの上に【放送中】の表示ランプと、いかめしいドアのハンドルだけが物珍しい。つまりそこが盛岡放送局のスタジオなのだ。しからば、このドアを開くと、前室があるんだなと大方の人は思うだろうが、廊下側にドアを引くと、ドッコイもう一枚のドアが入り口を阻む。
 つまり、スタジオの壁は比較的厚く、廊下側に開くドアとスタジオ側に押し開くドアがあり、2枚のドアに挟まれるように僅かの空間が存在した。一夜干しのスルメでもない人間がどうして音も無く(大抵はアナウンサーが、ドラマの枠を読まなければならなかつたり、最後のコールサインも読むが)入退室できるのか?長年の経験で培われた特殊技能かもしれない。内部はじゅうたんを敷き詰めているが、壁面は凹凸も無く、(次の寸法は、全くの記憶でしかないので、違っていたらお詫びしたい)部屋の広さは、短辺は(1.8×3m)長辺は(1.8×4m)位、昔風に言えば,三間四間の12坪くらい。
 短辺中央に副調制室とスタジオ間に防音の窓ガラスが設けられてある。通称金魚鉢、と副調側もスタジオ側もお互いに言ってたらしい。
 アナは右に首を振って副調からのPDのキュー(合図)を見る仕掛けだ。古ぼけた平板のテーブルが一つ、右手にトークバック(副詞とアナとのマイクによる会話が可能になるスイッチボックス用のもの)があり、正面にマイクロフォンがあるだけ。
 時間が来るとニュース、天気予報などの原稿片手に飛び込んで、放送したものだ。
 さて、長手の方向には外側に、鉄のサッシのガラス窓(両開き2面)があり、エアコンなどの無い時代、真夏の放送は我慢できずにリハーサル中は窓を開けたものだが、放飼いにされたヤギが顔をだしメエ~と一声,農村向けドラマにはぴったりと、思わず苦笑したものだ。
 中央には、一本のスタンドマイクが立ち、スタジオの一隅には、グランドピアノが鎮座し、稽古が深夜に及ぶとピアノの上に頬杖ついて雑談し、暫しの息抜きを楽しみにしたものだった。
 スタジオの壁面は、緞帳風のビロウドのカーテンが、たっぷりと襞(ひだ)をとって吊るされ、反響に考慮されていた。
 名誉のために申し上げると、スタジオの壁面はリフォームされ、勿論明るい近代的なクロスに一変、床面に散らかつていた効果道真も整理され、壁面の一部を抜いて効果道具その他を収納する物置室を造って頂いたような気がしている。(効果道具については後述する)
 さて、スタジオを出て廊下を北に進めば、お隣は放送部のお部屋、正面奥には放送部長席、くっついて向かい合って机が4~6基。まことに狭い部屋だったと記憶する。
 その隣がお手洗い、白いタイル張りで見るからに寒々と見える。廊下を挟んで向かいが、給湯室。小上がり風の畳敷き、一見小使い室ふうに見えるこの部屋は、兼宿直室。
 アナや、技術職の人が電波が落ちて朝の放送開始までの、暫しの仮寝の夢を結ぶ憩いの部屋でもあった。手洗い所と宿直室までが本館?と云う感じ、その先はすのこ板が敷かれて職員の入口があった。その棟が営業さん達の部屋で沢山の職員がいたような気がする。 そんな訳で、今一度、玄関方向に戻ると、玄関からスタジオを見て右折した角の所が、盛岡放送局の局長さんの部屋である。と言っても3.6×3.6m四方位の部屋にデスク、書棚、白いカバーで覆われた応接セットがあった。その隣にある部屋はいわゆる控室。簡単なデスクの上には謄写版(通称ガリ版)があって、筆工がカリカリ音を立てていた。通常の日は出演者はその部屋に集合、台本の制作が完成すれば、インクの香りも生々しい台本片手にリハーサル開始である。が、この部屋だって長椅子と応接卓はある。出演者の人数によっては窮屈な日だってある。「窮余の一策」PDのはからいで、局長殿の退局後や、出張予定の日には使用許可を頂き、快適な練習に励むことが出来た。

 生放送のスケジュール
 前述したが、私は「伸びゆく若葉」のレギュラーに、昭和26年元日出演者となり、いろいろな経験をしましたが、地方局制作の初の連ドラが最高視聴率50%を超す視聴率を上げ、12年間600回を数える快挙を成し遂げるとは!!
 
(イ)  ドラマの舞台(一家の構成)何故、数年で変わるの?
 舞台は盛岡近郊の3世代が仲良く暮らす普通の農家。その一家に関わる人達が当日の話題によって登場する。例えば、農業改良普及員、農業組合職員、二男の活躍する青年団員(もちろん好意を寄せる文性とか)、娘の4Hクラブの友達など。村の人気者セカセカ産婆さん、そしてもう一人忘れちゃ行けない博労さん。家族ぐるみの付き合いだ。
 福松、つる一家であるが、この家族構成は3~4年で変えなければいけないことになる。なぜかと言えば孫たちは実年齢でキャスティングされているので、数年後には変声期の声を聴取者にはお聞き頂くことになり、かくして舞台は変わり、子役たちも一回り幼い子供になるのである。例えば、公民館長一家となったり、開拓者一家となったりと世情にあわせ、子供らを取り巻く学校生活の変化に対応したりと、作家佐野竜太氏も大変なご苦労をなさったことだろう。(その才を認められ、「若葉」終了後は、NHKに望まれ、東京で、「朝の農事番組」を執筆したり、名古屋の局では「中学生日記」執筆するなど活躍された)
 竜太氏は次週の出演者は構成がまとまれば、事前の連絡はあるが、書きだすのは当日朝と云う。
 勿論、アナウンサーのドラマの前後のコメントは、「伸びゆく若葉の時間です。今朝は、長かった梅雨も明けたような空が…」と書き出すと軽快に今日のエピソードが流れるように紙面を埋めるはず…だったのだが午後になると突然の雨音。暫くは止みそうにない。恨めしそうに「晴天」に関わる話題はボツ!「福松一家」は常に自分の近隣農家と一緒な生活なのだ。自分も晴れた日に田の草取りに精を出しているのだ。
 さあ、大変!いつもだったら3時頃には、原稿をもって局に到着。する筈だが…そんな日は原稿用紙に筆を走らせながらタクシーの中、更に忙しい時はタクシーの中には書きかけの原稿用紙のみ乗車してることもたびたび。台本の最後のページは白紙!
 そして一言。『最後の〆コメは、適当に和やかな団らん風景をあらわす様に』とある。
 
(ロ) 台本完成!下読み開始(17時30分)
 そんなハプニングが無ければ、台本は5時頃には出来上がり、役者の到着を待つことになる。印刷係はタクシーの到着を見たり、お空を見上げたり気が気じゃない。
 そんな事とはつゆ知らず、本日の出演者は、それぞれの職場、学校を退けバスや自転車で駆け付け、5時30分前には室員集合。急いで台本のページをめくる。オット、気を付けなければ手や顔にインクが…
 急がねばならないのは、今日のドラマに必要な、効果音の手配である。難しいものはないか?局にあるものは、博物館に展示してあるようなものばかり。生活の匂いが無いモノばかり。それぞれの頭にインプット。やがてPD登場。軽く状景を説明、今日のテーマを確認する。
 その間、凡そ20分。台本の下読み、完了である。
 
(ハ) 下読み1回、小道具集めに(擬音用)奔走!
 PDは副詞室に、レコード、台本、資料等を持ち込み、BGMの頭出しの打ち合わせを技術さんと始める。この間にキャストは、すぐさま構内の官舎(偉い人の宿舎は通常こう言われた)に走り、き白の効果音の音源になるものを拝借することに。
 毎週の事で、快く貸して下さる。食器類は湯沸し場で調達、茶碗、お椀は勿論、皿、湯呑、茶道具までも用意する。スタジオに運び込み万事OKである。
 一方、建物、自然現象に関するものは壊れたりして、心もとないが何とかなる。まず絶対必要なものは玄関戸、障子、襖、雨戸(農家では縁に沿ってガラス戸ではなく、いきなり板戸(木製)を建てる)ガラス戸、障子、襖、板戸はミニチュアのセットが効果道具として用意されてある。実際の音に似ているかどうかは腕次第と言う訳。
 
(ニ) 閑話休題。効果音、面白辞典
 ガラス戸は、ワザとレールを外し、ギシギシ感をだし小屋とか裏口の戸に。来客を迎える玄関戸は重おもしく、ゆっくり開ける事。同じガラス戸で軽く手早く開聞して小型感を強調して窓ガラスの戸を表現。(開けたら閉めることも忘れずに)簡単で難しいのは柱時計の音。秒針の音も強調する必要がなければ無い方が良い。昔の時計はゼンマイ式なので、ゼンマイの音がジイ~と戻る音が意外と長い。ドラマに無駄な空間が出来てしまう。したがって柱時計を抱えて自分の指で、均等な間隔で無心にはじくことが大事。
 「ああ、お昼だな」なんて言いながら自分で打っている内、何個打ったか迷ってくるもの。十分お気を付けあれ!(現在は電池式だからね)
 飯台に並んだ食器類は無暗に鳴らすべからず。今は食事している雰囲気を感じてほしいモノです。落語じゃないんだから「チンチロリンのぽーりぽり」と鳴らしてお茶漬けかきこんでいたんじゃ、一家団欒の雰囲気台無しだ!音を出したかったら「お皿貸して」とか、「ほら、落とした!」とか、さりげないアドリブで補足したいものです。
 お爺さんの食事には、晩酌がつきもの。御酌は徳利とお猪口だ。さりげなく触れる瀬戸物の音。トクトクと酒が注がれる音、一口すすって一言。このアドリブは下戸でも飲みたくなりそう。冷や水は注ぐべからず、温めたお湯でカン酒を表現すべし。一升びんから注ぐと緊張のあまり一升びんとお猪口の口に何回もカチカチ触れる人もいる。その時はすかさず、糟糠の妻か、息子が、
 「お爺さん、お爺さんす。飲み過ぎるずど手元震えで来るんだずよ、気ぃ付けらしぇ。(笑い)」
 御酌の役も落ち着き、緊張もおさまり、注意しながらも声の立たないアドリブにすべし。
 
(ホ) スタンバイOK!音も入れてリハーサル開始(18時10分頃)
 演出、技術さん準備万端整ったところで、音楽、効果音入れての練習が始まる。
 (これで最後のリハーサル)
 副調からの「は~い、皆さんスタンバイですよう」の声であちらこちらから顔を出す。それぞれの位置に着く。立ち位置の確認だ。マイクはアームで中央に吊り下げられる。
(以前はスタンド式。足元を蹴飛ばす人もいた)マイクは指向性だ。正面から話せば大きく聞こえ、左石に角度を広げると徐々に離れていき(声も小さくなる)、次第々々にO
FFマイクになり、遠方からの声になるのだ。
 「さ、ご飯の支度できあんしたよ。ご飯いだだきあんすえん」
と嫁が登場するのがOFF→ON。離れたところから近づいてくる。
 「はあ、そうが。伸びゆくサカバでなくて、ワカバ始まるな。よっこらしょっ」
と、立ち上がってOFFに行く。マイク正面からマイク側面に回り込む、又はマイクか ら後ずさりしながら科白(せりふ)をいう。つまりON→OFFお爺さんの声が遠のくことによってお爺さんが今から台所に移動したことを表していることになる。
 外のシーンでは、産婆さんの登場となる。田圃で働く婆さまに声を掛ける。自転車のベルをチリンチリンと鳴らしてから、(ベルの音を聞かせないと、自転車の存在が分からないから)ONマイクの婆さんに声を掛ける。産婆さんは小さいスタジオの、斜め隅から大きな声で、
 「あやや、お婆さんお稼ぎでがんす。ペッコ一服しあんすべ。丁度団子も買って来たどごだし」と呼びかける。ONマイクとのバランスが絶妙、「あーん?なにしたどす?」と、聞き返したりして、よりリアルに感じて買いたいと一生懸命。
 そんなこんなの打ち合わせが続き、あっという間に時間が過ぎ、6時30分はとうに過ぎた。もう一度、通して最後の読み合わせをしたいが、残念!時間がない。
 軽く再チェックで本番スタートとなる。一人一人で自分の動きを、頭の中で復習をする緊張の時間は過ぎる。
 アナは、二重扉のスキマ?からスタジオに入り机に座り、マイクに向かう。ラジオから「向こう三軒両隣」のエンディングが聞えてくる。緊張の一瞬!
 
(へ) ナマ放送始る (18時45分)
 「伸びゆく若葉」のテーマ曲が流れる。
 (註:なんと、この曲「暗路」という作曲ライトン氏の作品だったのです。作詞は佐藤朔風氏、別名「ほととぎす」とか。あまりにも旋律と歌詩がマッチしているので日本の曲と思われていたと、捜してくれた方も申しておりました。「やみ路」が正しい読み方ですが、「闇路」ではありません)
 テーマ曲に粟つて、アナ「皆さん今晩は。伸びゆく若葉の時間です。…」
 出演者一同ホッとした顔になる。大人も子供もレギュラー出演で、本人のキャラクターに自然になり切ってしまうのかもしれない。何事も無く進む。
 時計をちらちら見ながら、髪の毛に手をやる事が多くなったPD、皿回しの技術さんも慌てることも無く、平然と仕事をこなしている。
 PDは金魚鉢かからスタジオに向って、腕を前から横に引っ張る仕草をする。その動作によってモットゆっくり進行するようにと云うサインだ。引っ張る仕草は、大分大きい。お互い眼で納得の表情。途端に食事時であれば、お茶の所望が多くなる。啜るテンポも聊かのんびり。牛小屋の牛も今日はのどかな鳴き声が気になる。さりげないアドリブが入る。牛の鳴き声は「動物の鳴き声」のレコードが無くても、とっさに間に合う。
 牛の声だけは、牛の名代?として認められた、小生の仕事でもある。ストップウオッチを眺め、両手で引きのばしていた仕草は、目の前でクルクルとまわし始めた。比較的のんびりムードで運んできた会話は、普通のテンポに戻る。
 いつの間にか、PDは頭上に大きな輪を作った。〈OK〉上手く収まったのサイン!スタジオから消えたアナは、また、気付かないうちに、二重の扉に挟まれながら登場。何事もなく、「只今の出演は 佐々木福松、小野寺瑞穂。つる、真木小苗。…の皆さん。(省略)…では、来週をお楽しみに」
 と。「皆さん。お疲れさん」と言いながら、今度はドアを堂々と開けて出て行った。
 
(ト) 効果音(擬音の道具)について
 ラジオの制作には、どんな道真をどんなふうに使用するのかが、見学者の大きな期待でもある。(小学生はラジオドラマの制作風景を団体で見学に来ることが多かった)
 現在では、いろいろのジャンルの効果音、BGM、ブリッジに至るまで、動物の鳴き声に至っては、よくぞこれまでと思うほどのCDがある。ので省略するとして…
 博物館の展示品よろしく、擬音道具とはこのようなものですと、各放送局で使用する機会がないにもかかわらず、ガラクタ同然の姿で保管されてあったものだ。
 まず身近なモノから、皆さんも御存じのものへ説明を進めて行くと、
 波の音:柳行李(やなぎごうり)に小豆を入れて、交互に斜めにし、中の小豆を大量に流れるように転ばし走らせる音の強弱により、大きな波、小さな波の表現する。浜辺の波のモデルと考えて下さい。が、断崖そばたつ三陸海岸の絶壁に打ち付ける波の飛沫は、作り出すことはできません。


 風の音:脱穀機の構造と思って下さい、脱穀機の胴の周囲に打ち付けている逆V字の釘が無くなつて、胴の周辺は三角形の山型の木を一周に打ち付けます。胴の部分に洗濯板が胴の外周に貼られたようにである。(中で、△がー本なかったのは空洞の風の音を反響させるためだったのか、壊れて取れたのか、不勉強で知らない。ドラムの胴に合わせて、帆布と云うべきかズック(ズックのカバン、履物に使用)の布を、ドラムに凡そ二分の一周する位に、台座の一方に片面だけ押えて留める。ドラムはゴーゴーとなり、半周のズック布の接触度合い、胴の回転の強さで、風、嵐の強さを表現していた。


 雨の音:小型なものは渋団扇(しぶうちわ)に4~5センチの糸の先に、小豆より小ぶりな鉛の玉を沢山吊るしたものがあった。これは雨降りから驟雨(にわかあめ)に至る経過をあらわす雨降り。渋団扇に鉛玉を乗せるようにして、パラパラとおどらせる。トタン屋根を叩く雨の音や、夕立などはうるさいものだが、我々素人は使用したことは無い。


 ドアの音、艪をこぐ音:拍子木2本を揃えて、片側に固い心棒をきつく打ち込んであり、ちょっとの力では直からハの字に、開くことはなかなかシンドイ!(だが、滅多に使わないので緩い場合もある。そこでわざわざ湿らせてきつくして使用する)
 潤滑油を注せば楽に開くと思うが簡単に開いては困るのだ。力を入れてひらくと「ぎぎ~」と軋むような音がする。開閉を繰り返すと「ギーコ、ギーコ」と、船の艪をこぐ音になる。1回でゆっくりと「ギー!」と開けると、蔵の戸とか、大きな扉を開ける音などを表す、現在、一般家庭ではもっとスムーズに戸が開けられる。軋むドアなんて過去の時代だ。戦後まもなく始まった『二十の扉』と云う人気クイズ番組にはオープニングに『“ギギー”(音)二十の扉』(パチパチと拍手)と始っていたっけ。


 馬の足音:お椀を用意(馬のひづめと想像あれ)又はヤシの実半分2個と聞いた。ザリを敷き詰めたミニ道路上を、早さを好みに合うように調整。


 昔の蒸気機関車の音・戸の軋む音:懐かしい蒸気機関車の音は、障子の桟を藁箒で軽くこするように「しゅっしゅっぽっぽ」。戸の軋む音は芯棒を支点に、ねじるように、捻るように、ゆっくり開くように、絞めるように。


 ここで大きな疑問?
 何故?苦労して、ナマ放送をしなければならないのか?いかに地方局であろうとも、天下のNHKではないか!その疑問もごもっともだが…
 終戦後、5~6年後の当時はロクオンキなるものが存在したのかと云う事が、大きな疑問として残る。
 愛宕山の放送博物館に、録音機が所蔵展示されているので、その資料によると、日本初のショルダー式携帯録音機が不二音響製作所によって試作され、日本初の録音機としてNHKに持ち込まれた。それが昭和26年(1951年)3月の事であったと云う。
 余談であるが、週刊誌の漫画の主人公「チャカリ伝助」から『伝助』が商品名と採用され、その後も通用したと云う。
 当時の名アナウンサー藤倉修一氏がそれを最初に手に取って、その可能性を読み取り、以後、自分の愛器として持ち歩いた、と云う伝説?が残る。そう言えば、「夜の社会探訪」なる番組が放送され、夜の上野公園、闇市、ドヤ街、夜の女などの知られざる世界を垣間見せたものだっけ。(「街頭録音」なども人気があった)ゼンマイ式の手回しで、使用中、次第に回転が落ち手回しで発電する代物だった。
 その後、ソニーCV-2000型VTR(1964)を、昭和39年2分の1オープンリールのモノクロテレビ用のVTRを使用、NHKでは番組の収録・試写用などに使用された。局以外でも、学校放送や、様々な生産現場でも幅広く使われた。VTRの記録時間は凡そ60分、重量21キログラム、価格は22万円と記録に有った。
 私も、私物として、ソニーのオープンリール(6インチ)のテープ式録音器を購入したが、昭和30年頃のことであったと記憶する。NHKでは26年3月、各局に可搬型、肩掛け型のテープ式録音機を配備した、と記録にある。推察するに長時間録音できる機器はまだ先の事だったであろう。
 磁気テープの切断、接着を得意とする名人?が現れたり、「若葉」の技術屋さんも自分の時間を割いて、「伝助」を肩に掛け、日頃使用するであろう些細な音も収集しようと、広い岩手を歩き回った。先輩のお蔭で、手作りの効果音を収集でき、大変お世話になった。
 つまり、当時は録音機が無いから生放送をせざるを得なかったと云う事。「伸びゆく若葉」が26年から開始しているから、録音は出来なかった訳だ。「若葉」のレギュラーメンバーの女性が、都合により辞めることになり、記念に録音盤を欲しいと云われ、SP盤でレコードをつくったが、出来た代物は摩耗が心配で飾って置いたと云う話を聞いた。今では考えられないそんな時代であった。


当時ほんとうにあったお話
  浴室の会話や音は反響するものだ。タイル張りの銭湯などはことのほか。
 戦後、その頃は、親しい家々では「貰い湯」が普通行われていた。ご多分に漏れず鶴松一家と博労さん、改良普及員さんも「貰い湯」の仲間である。
 夕飯も終わった頃早々に博労さんの声、
 「じぇ~、辞儀なしに湯っこ貰いサ来あんしたじぇ。」待ってましたと、
 「どうぞどうぞ。おら家で済んだじぇ。ゆっくりつかわしぇ。」
そんなシーンが良くあった。
 サァ、風呂場の反響音をつくりたい。昔の風呂場は母屋から独立して離れている。風呂は木製桶の据え風呂、テッポウと称する煙突状の焚口が付いている。スタジオ内部に木の盥(たらい)を持ち込み水を張る。タオル、洗面器が用意される。お湯を使う音と、のんびりとハナ唄の一つも響かせたいものだが、当時はエコーマシンなる便利なものがない。
 そこで凝り性な技術さんのお出ましとなる。飛び込んだりバチャバチャするノイズは不要だが、タオルを使う音とか、天井から落ちる水滴は必要だ。タオルを使う音、短い会話、湯舟に落ちる水滴の音を拾って、数間離れた手洗い所の中に、スピーカーから音を流し、再びタイル張りの中で、エコーのかかった音を拾って使用した。厠(かわや)の廊下には「放送中につき使用中止」の張り紙が貼られたことは勿論であった。嘘みたいな話であるが、してやったりと技術さんの「ドヤ顔」を見ることが出来ない。
 その後ドラマは進み、「やや、お蔭さんでがんした」と風呂から上がると、「まず、まず、コメの消費拡大のために、一杯やっておでんしぇ」と続くのが常だった。

同じような話で恐縮だが、山歩きのシーンで「やまびこ」が欲しい時は?
思い出して頂きたい。スタジオの隅にグランドピアノが在ったことを。
鎮座する、ピアノを蓋を開け、内部のピアノ線に向って大きな声を出したものだった。
多少の加工を施して、現実に近い音を目指して、手作りのラジオドラマは出来上がって行った。

  終わりに
 今の世に生きて、当時のドラマ作りが如何に幼稚だったことか!真に恥ずかしい限り。地方の井の中の蛙が、見様見真似で、否、各中央局のドラマ作りのノー・ハウも知らず制作現場を見学したことも無く、耳から聴く作品を目標に試行錯誤を繰り返した。少しでも、中央で制作される作品に近づくことを目指して。
 戦後5年、昭和25年は初の放送記者、本部採用のPDも盛岡に赴任、ローカル放送の充実が図られた年であった。(前述したが…)
 それまでPD職もおらず、放送劇団も無く、効果マンもいなかった。(東北では仙台中央放送局には、専属の劇団が附属、効果マンもいたが、それもテレビの隆盛と裏腹にラジオは衰退を辿り、地方局の外郭団体である、劇団、合唱団は姿を消して行った。)
 昭和28年2月1日。わが国で初めて、本格的テレビ放送が開始され、全国で民放各局が名乗りを挙げた。盛岡放送局も出力を増力、広い県士に中継局が建設された。
 職員も増え、報道記者を初め、農事番組担当(RFD)、勿論プロデューサーも。局舎も送信所の増築も行われたと記憶するが、昭和38年2月盛岡放送会館に新築移転するまで窮屈な思いをされたことだろう。我々が待ち望んでいたPDさんも次々着任されたが、優秀な人材は移動が速く、各中央放送局、東京の放送センターへと活躍の場を広げていった。
 最後に、ラジオに、芝居大好きの集まりが、手探りで模索したラジオドラマが、大きな花を咲かせたことを記憶に残したい。
昭和36年度「芸能お国めぐり」 枠内の放送劇3年連続日本1位と2位を獲得。
ラジオドラマ「馬市のあと」作・佐藤竜太 演出・竹内日出男 出演:盛岡放送劇団。
ラジオドラマ「炊(かしき)の歌」作、演出同じ。出演:盛岡放送劇団。前作と同局であると云う事で2位。但し特に演出賞を特別に授与された。
昭和38年度「芸能お国めぐり」で前2作に続き、
ラジオドラマ「べごまぶり」作・小林和夫 演出・馬場 順 再び1位を獲得。


▼▼▼2019年11月23日▼▼▼
岩手大学創立70周年行事に参加して
               柴田 隆昭 電気工学科第10回 昭和37年卒


 令和元年10月19日に行われた「岩手大学創立70周年 記念式典講演会・記念式典」に参加したいと思ったのは、千載一遇の機会として参加して、皆さんと親交を深めることにあった。
 70周年行事は10時からの「岩手大学卒業生・修了生と学長との懇談会」で始まった。この会は岩手大学同窓会連合と岩手大学の共催して、平成20年から継続的に開催されており、今回で第12回とのこと。70周年記念事業の一環として、岩手大学総合教育研究棟(教育系)の北桐ホールだった。当日は、岩渕学長と小笠原同窓会連合会長(北桐会会長)の挨拶で始まり、担当理事、各学部長等から大学・各学部及び学部を越えた取り組みについての説明があった。
 さらに学生からも留学経験や、学内カンパニーの実際の活動の様子についての紹介があった。次いで岩手大学の教育・研究・社会貢献について懇談・意見交換を行い、我々同窓生と一緒に大学執行部が直接意見交換を行う会合であった。懇談会場でお会いしたのは太田原功先生、柏葉安兵衛先生、久保田賢二科会長、澤藤隆一さんは勿論のこと、狩野利之東京支部長。そして盛岡を愛してやまない我が同期、鉱山工学科卒の得田雅宣君らの諸氏でした。


[総合教育研究棟エントランス㊧と懇談会に参加した科会メンバー]

           
 「記念講演会・記念式典」は岩手大学第一体育館において約600名が出席し、開催された。記念講演は第58 回芥川賞を受賞した同窓生の若竹千佐子氏(本学教育学部卒業)が登壇。標題は『おらはおらにしたがう~自己決定権 を持つ生き方~』の対談形式で、学生時代のエピソードを交えてのご講演であった。
 また、その後行われた記念式典では、岩渕学長の挨拶に続き、多くの来賓の方から 挨拶があった。式典の最後には記念歌「虹の翼」作曲:大場陽子(本学教育学部准教授)、作詞:照井 翠(本学教育学部卒業生)の紹介があったが、80歳の小生としては、岩手大学学生歌『花ふふみたる~』の斉唱が感動的であった。盛岡に在住する得田雅宣君と、この歌の素晴らしさに感激したことを改めて確認した。


[講演する若竹千佐子氏㊧と70周年記念歌「虹の翼」&学生歌の披露]


  次いで、『記念祝賀会』が、「ホテルメトロポリタン盛岡 NEW WING」にて開かれ 多くの方々が参集した。電気系科会副会長の柳橋好子様にもこの会場でお会いした。


[記念祝賀会は升酒で乾杯㊧と笑顔溢れる科会メンバー]

 なお、三つ目の目的は、小生の悲願(元科会東京支部長寺井正行氏のご指摘)である「北上河原の初恋=北上夜曲」の、手がかりを得るための盛岡行きであった。 出来れば、高齢者の三大愛好歌(青い山脈、北上夜曲、花(川は流れて)[注:新宿うたごえ喫茶ともしび調べ]の一つである「北上夜曲」= 『北上河原の初恋』のルーツを探るための何か手がかりを得たい。この事に関しては残念ながらあまり成果はなかった。
 

 今回の70周年記念祝賀会は、学芸学部・教育学部系の方々が一番多く、次いで工学部系 (現、理工学部)、農学部系の方々の出席は少なかったようであった。そんな中にあって、一人の地元の教育に携わっている方(名刺交換せず)と、人文自然科学部長の山本昭彦先生に原譜を探していることを伝えたことは、それなりの成果であったかも知れない。なお、写真撮影に当たっては、澤藤隆一経営評議員にも協力して貰ったことを、このページをお借りてお礼申し上げます。

 実は今回の旅には“二つ目の目的”があった。岩大で撮った写真を翌々日(10月21日)に開催される、我が『岩大電気10回生傘寿踏破記念』の第14回目の同期会で披露することだった。


[岩大電気10回生 傘寿踏破記念の第14回同期会]


 この同期会は堀内勝彦君のご尽力で、16名が参加し横浜市内で開催されたが、諸般の都合で写真の紹介は実現出来なかった。        (以上)

▼▼▼2019年5月12日▼▼▼
科会 同窓生の皆々様へ
            柴田 隆昭 電気工学科第10回 昭和37年卒


 平成から令和に移ってメディアの喧騒も漸く落ち着いた感を抱いた方も少なくないのではと思いましたが、皆さんはこの数日間(連休10日間)をどのように過ごしたのでしょうか?

 ところで、皆さんは「同袍寮」に入寮した時、先輩の方々が『袍』の意味を教えてくれましたか? 私の場合、袍の意味は「ドテラ」だと教えてくれました。(教わりました)

 これが今度の上皇が着衣していたTVの映像で初めて知ることが出来ました。即ち、「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」の「袍」だったのです。

 思えば、昭和14年我が理工学部の前身、「盛岡工業高等専門学校」に当時の松尾鉱山の中村社長が機械、工作機械、電気、金属、鉱山の学徒が入寮できるように五棟の学寮を寄贈してくれたと伺っております。

 当時、硫黄は黒色火薬の原料として、あるいはゴムの可塑剤として、または配電用碍子の絶縁材としての需要があり、もてはやされていたことと推察されます。(産業史をひもとけば判る話であるが)

 因みに放射線計測屋として一言付け加えるならば、碍子にあった硫黄(S)は廣島、長崎における原子爆弾の被爆量の推計に役立ったことはあまりにも有名な話であります。

 原爆の中性子を浴びて放射化された硫黄は放射性硫黄となり、あたりほとりに碍子と共に散らばりました。硫黄の同位体は25もありますが、恐らく半減期の短いβ線を測定したのでしょう。

 投下後、アメリカから来た調査団と日本の理研の仁科研究室(鉱山工学科におられた仁科君は交通事故で早世したが、仁科博士の末っ子であったことは後で知った)の室員が 同心円状に散らばった硫黄の放射線を測定したのです。

 話を戻すと上皇が着衣していた『袍』は拙者には黄色には見えませんでした。柿渋色もしくは茶色に見えましたが、皆さんは如何だったでしょうか?!         以上
          柴田 隆昭 拝

 (注)電気工学科 昭和37年卒、昭和34年2年次の時副寮長に相当する副委員長(半年)を経験した。当時は寮(運営)委員会と称していた。

▼▼▼2019年4月27日▼▼▼
「鷲」の雪形が春爛漫を告げました
                 宮手 敏雄 電気工学科第17回 昭和44年卒

 春爛漫の季節を迎えた盛岡市から望む岩手山の頂上付近に、鷲が飛んでる雪形が今年も現れました。岩手山は「巌鷲山(がんじゅさん)」とも呼ばれています。この雪形は「もうコタツから出なさい!里の桜も咲き、田圃作りを始める時期だよ」と山からのお知らせです。(平成31年4月22日午後2時45分、岩山展望台から)


▼▼▼2019年3月24日▼▼▼
山田線の宮古~釜石が三鉄リアス線として復旧
          宮手 敏雄 電気工学科第17回 昭和44年卒

 平成2011年3月11日の東日本大震災大津波からもう8年。JR東日本の山田線の宮古~釜石間も壊滅的な被害を受けました。その復旧工事が完了し、3月23日に開通し同区間を記念列車が走りました。翌24日からはダイヤ通りの運行が始まり、久慈駅から盛駅までの直通運転もあります。
 JR東日本はこの区間の運用を南・北リアス線の第三セクター「三陸鉄道」に移管。北の久慈市から南の大船渡市(駅名は盛駅)までの163kmは、第三セクターの日本最長路線になりました。



岩手大学電気電子情報科会

          

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